駅近ビジネスホテルのごく平凡な朝食で一日のスタート。
本当は朝一番(朝食開始6:30)で始動する予定が、昨日のドライブや数日続いた寝不足もあって、入場〆切ギリギリの9時。
いつも慌ただしくあちこち回る事に備えて昼ナシでもよい位、ガッツリ食べる訳ですが…
イクラが幾らでも食べられる(失礼!)のは、北の漁業県ならでは。
最後にトロロと一緒に戴きました。
青森市内から車で10分ちょっとで、5千年前にタイムトリップできる、かの、
三内丸山遺跡訪問。
いつかは訪れたいと願っていた場所に遂に降り立つ。
鹿児島の上野原遺跡以来の縄文遺跡巡り。
理屈抜きで世界最古クラスの文明、縄文時代の日本に思いを馳せることの出来る時間はホント、至福の時。
彼等の末裔である事に誇りと感謝、畏敬の念を持たざるを得ません。
いつまでも居たい位でしたが、後のスケジュールもあり、泣く泣く二時間弱で切り上げました…。
世界遺産入りを目指して、コンサルを入れて準備に余念がないのだろうなぁと思う、各所の作り込み。
巨大な縄文土器が入り口で出迎えてくれます。
10:30からのボランティア無料ツアーガイドに参加する事が出来ました。
ボランティアの方々には、ただただ、頭が下がります。
ボランティアガイドのK池さん、宜しく御願い致します!
トンネルをくぐり抜けると…。
5千年前の縄文村落が目の前に現れます、
と思いきや、目の前は開けますが、それらしいものは見当たりません。
左手のなだらかな坂道をガイドさんの説明を受けながら下って行きます。
これも立派な当時の「道路」跡。
5000年以上前に人造道路があった。
立派な文化的な暮らしをしていた証左ですね。
狩猟・採取&穴居生活みたいな原始人に近い縄文時代のイメージをお持ちの方は多いと思いますが、大間違いである事が次々に分かって来ています。
この遺跡を発掘する際に伐採した林の木のチップで舗装しているとか。踏み心地は確かにソフトです。
巨大な集合住宅(かもしれないという) 出土遺構。
中はこんなに広い。
一体何のための建物だったかは仮説の域を出ておらず、冬場の集合住宅だったとか、貯蔵庫だったとか。
何れにしてもクリの木でここまでの建物を建造した縄文人の技術「力」は、確実に現代日本人のDNAに受け継がれていますね。
虫除けのために全体を燻します。
燃やさない程度に焦がす、というのは中々イメージが湧きませんが、当該効果がある事を先人達が理解していたとは驚き。
この建物の中に殆ど虫は侵入しないそうです。
入り口が高く小さく設計されているのは、冬場の雪除け対策の意味があったのかも知れないそう。小さいのは熊とか、猛獣避けの意味もあったのかもしれません。
ボランティアのK池さん、本当に丁寧に解り易く教えてくれます。
アノ世代の上から目線・不遜な態度での質問に対しても。頭が下がります。
大人の墓。
200基位、並んでいるそうですが、酸性土壌の為に、遺骨は跡形もなく残っていないとか。
リンやカルシウム、脂肪酸という、化学式の世界になってしまっても、ここに縄文人ありき、という「しるし」は刻まれている。
雨が降ったり止んだりの悪天候(鹿児島の時もそうだった…) でしたが、却って荒涼とした風景が縄文住居は映えます。
こちらは子供の墓跡。
土器に入れて埋葬するとは知りませんでした。
大人と違って住居近くにあるそう。
5千年前も親心は一緒という事でしょうか。
最愛の子を亡くした我々の祖先の悲しみ、辛さも今や5千年の星霜を経て、すべて昇華している訳ですが、その有難い祖先の愛のお陰で今、我々日本人は命を繋いでいる事を思わざるを得ません。
聳え立つ謎の櫓。
気になって仕方がないですが、ツアーガイドでは最終地点。
地層のモデル。土器片が生活感を出してます。
遂に巨大櫓の下へ。
元々建っていた場所(屋内に囲われ)は、少し離れた所にあります。
残っていたのは土中に埋め込んだ柱の部分。
腐蝕防止の為に焦がした跡がある。であるが故に、5500年の歳月を越えて残った。
この太さ。直径は1M。
栗の木の樹齢は少なくとも103年以上だとか。
今ではこんな巨木を日本で調達出来る訳もなく、シベリアはロシアから調達したそうです。
六本の柱はそれぞれ内向きに若干、傾き、耐震強度を高めていたとも考えられている。
現代に続くナントカ工法という技術だとか。
縄文人、まさに恐るべし、である。
思わず太古の暮らしに溜め息が出る遺跡の散策を終え、併設されている資料館を、ざっと見。
通路には沢山の種類の出土土偶のレプリカが見下ろして来ます。
土偶とは一体、何の為に作られたのか?
人類、そして宇宙の謎なのかも知れません(笑)
よく出来た、縄文時代の人々の暮らしを生き生きと表現した縄文人マヌカン。
縄文時代って、明るく平和な時代だったというのが今や定説ですが、大陸から野蛮な者達がやって来たあの日までは…って感じでしょうか。
人骨に争って傷ついた跡が見受けられるのは弥生時代から。
災いは今も昔も大陸からやって来る歴史の教訓。
黄河文明だの長江文明などを必要以上に有難がって、日本に存在した偉大な縄文文明の近時の研究・発見の成果をキチンと学校で教えない、日本の歴史教育の歪みを改め、世界に誇る日本文明を世界に発信すべきとは思いながら、
地元の方々が、一生懸命取り組んでいる 世界遺産 入りは、
「しなくていいんじゃない?」
と真剣に思いました。だって、
真面目な知的好奇心旺盛そうな白人は何人かいましたが、奥入瀬には、あれだけいたナントカ人達は聴こえてくる音声からはゼロ。
彼等を始めとする、反日人種が、土足でココに押し寄せる様な不粋は、やはり避けるべきでしょう。
遺跡から出た花粉から、貴重な建築材であり食材であった、クリ🌰に人為的に遺伝子操作した形跡があったり、漆塗も、鉱物利用も多岐に亘っていた高度な文明がここに存在していたのは揺るぎのない事実。
サヨク学者の日本矮小化のインセンティブは幾ら高くても、科学の進歩と相まって真実はもう覆い隠せない。
偉大な発見と研究の成果がどんどん出てきて、人類の謎もひとつひとつ解き明かされていくのでしょうね。
縄文の森から後光差す縄文人の旅立ち。
素敵な「絵」ですね。
現代日本人に繋がっている長い長い道程。
我々一人一人が守り次世代に繋げていかないといけません。
決して人が入れ替わってしまう某国4000年の歴史と同じになってはいけない。