台風一過ではないが、久しぶりに晴れ渡った東京。
幕末の激動期を思わせる令和の日本。幕末の巨星・吉田松蔭を偲んで「最初の」お墓🪦がある小塚原・回向院を訪ねました。
(回向院は両国が本院でこちらは別院なんですね。)
南千住駅
南千住駅って初めて来ましたが、お目当てとは違って松尾芭蕉が出迎えてくれます。
https://www.city.arakawa.tokyo.jp/a015/shisetsuannai/sonota/sonota082.html
有名彫刻家・平野千里氏の作品。
奥の細道の旅、出立の場所として、通説は千住大橋の北詰(北千住)だそうですが、それに意を唱える南詰説(南千住)。
北千住と南千住の南北論争😅があるんですね。
初めて知りました。。。
北千住は足立区、南千住は荒川区と、区を跨いでいるのもあり、ヒートアップ気味⁇↓
芭蕉が深川(門仲)に住んでいたなら、旅の安全を祈る神社仏閣は周りに幾らでもあって、態々、素戔嗚神社で祈る為に、船の利を活かさず南側につけてその後、歩いて大橋を渡ったと言うのはちょっと解せない行動に思えますね。
私は北千住説(足立区長&江東区長)を支持します❗️🤣
史跡・小塚原回向院
何故、葵の御紋なのだろうか?
入口左手前には吉展(よしのぶ)地蔵尊。
今は全くなくなりましたが、身代金目的の誘拐事件の犠牲者と遺族の悲しみは計り知れません。
江戸の三大刑場の一つ、小塚原刑場跡地という回向院。
回廊には、何故か
杉田玄白 解体新書の蘊蓄が…。
うーん🧐、そういう事かと。。。
吉田松蔭の墓を参ろうとした、ヒョンなことから、これは思いもしない発見でした。
医学の発展の為、江戸幕府も囚人の亡骸の解剖を認めていたんですね❗️
腑分け
とはまた、ゾクっとくる直接的な表現です。
中学の歴史の授業を思い出します、てか、それ以来、縁はないですよね、普通😅
これを和訳する為に、囚人の遺体をバラバラに解剖して「こりゃ、すげー」と驚く知的好奇心丸出しの日本人の姿、今も昔もあんまり、変わらないですね。
罪人達も最期に日本の医学の発展に役立っていたと。
史跡エリア(単なる墓地ですが)に足を踏み入れると、お目当ての吉田松蔭の「最初の」墓が。
松蔭先生なんて言うけど、没年29歳。
大昔の日本人は人生50年。早熟で優秀ですよねぇ。
多くの現代日本人の間延びした生き方からすると、様々な事を考えられさせられます。。。
松蔭の他にも、江戸期〜昭和初期の著名な罪人達の墓が…。
鼠小僧次郎吉って実在してたんですねぇ。
時代劇の想像上の人物だとばかり思ってましたよ。。。
(本当の墓は両国の回向院本院の方にあるそうです)
延命寺
今は手広く、他所で関連事業(霊園事業)にも携わっているようです。
1741年増立された首切り地蔵尊。
ここで処刑され首を切られた囚人たちの為のみならず、日光街道で行き倒れとなった人などの、無縁供養の為に作られたとか。
一体どれほどの死者達を見守ってきたのでしょうか…。
余談ですが、私、幼少期の実体験から、地蔵尊のご加護を信じてます😊
処刑場だけでなく、徳川家の馬🐎達もここに埋葬されていたんですね…。
葵の御紋の意味が分かりました‼️
折角なので、陸橋を渡り、もう一つのテーマへGo💨
ジョーの聖地へ
子供の頃、TV(勿論再放送)や、リメイク「あしたのジョー2」はリアルタイムで) で見た不朽の名作・あしたのジョー。
原作漫画も買って貪る様に何度も何度も読みました…。
今となっては、ジョーはドヤ街出身ってことしか頭に残ってませんが、「泪橋」はよーく覚えてます。
リアルの思川はジョーが連載された時には、既に埋立られていて「明治通り」になっていた。
泪橋の下の「丹下段平ジム」っていうのは、バーチャルな世界にのみ、存在し得るものだったんですね!
しかしリアルな泪橋には、悲しい人々の人生が刻まれ続けていた…。
刑場に渡る囚人の涙とも、その囚人の知人が別れを惜しむ涙とも。。。
思川、何とあの源頼朝がここで馬を洗った事もあるとは驚き‼️
日本堤交番前を右に折れて歩いていくと、
昭和がそのままな商店がポツポツと残る街並み。
あ、いました〜♬
矢吹丈❗️
ありし日の夢多き少年も、ボクサーになる夢だけは(体形上🤣) 持てませんでした〜。
実際、歩いてみて「全てが一筋に繋がった」江戸北東方面への歴史散歩でした〜。